捨田利先生は、話し方教室をお寺で開催することもあり、昔からお寺との縁が深い方でもありました。
お寺の住職とお話しをして、自ら感じたお寺の歴史や特色について、独自の文章を残しています。
ここでは、捨田利先生が残した「心の旅 百寺感動」の文章をご紹介いたします。
競争社会のストレスに疲れ果てて自信を喪失したり、
人間性疎外の機械化社会の中で心の芯がうつろになっている都会の若者達に、
いま私はお寺に行くことをお勧めしています。
多忙にかまけて為すすべもなくメンタルダメージを大きくする前に、
一息入れて感動体験をすることにより自己(人間性)を回復し、
自信を取り戻していただきたいからです。
私がお寺関係の仕事を通じて寺巡りをしたお寺の中で、
こんなお寺でこんなお坊さんに会ったらさぞかし心が和らぐであろう、
また勇気と希望が湧いてくるであろうと思われる、いくつかのお寺がありました。
そんなお寺さんを私の記憶の中から引き出してご紹介したいと思います。
第一話 カラスの寺
第二話 歴史をしのぶ寺
第三話 山野草の寺
第四話 鷹の寺
第五話 「笑顔のお地蔵さん」 の寺
第六話 観音降臨の寺
第七話 天地人の寺
ここは丹波の山里の寺・楞厳寺(りょうごんじ)。
温厚な老僧に、「さぁさぁどうぞ」と通された本坊の日本間は
見事なカラスの襖絵(ふすまえ)に囲まれていました。
「この図は巣立ちしたカラスが成長してから親に恩返しをしている場面なのですよ」
と老僧のことば。
そして『鳩に三枝の礼あり、鴉(からす)に反哺(はんぽ)の孝あり』の故事を聞かされました。
鳩の子供は親鳩より三つ下の枝にとまる。
これが親を敬う『三枝の礼』と言われる所以(ゆえん)と。
そう言えば昔そんな諺を聞いた覚えがあることを思い出しました。
カラスの子が大きくなって自分で餌が取れるようになると、必ず自分で取った獲物を親に「喰べて下さい」と運んでくる事を『反哺の孝』と言うとの事。
えぇっ、カラスがそんな事をするの!
初めて聞く驚きでありました。
そしてこれを描いた画家がまた凄い!
横山大観の畏友(いゆう) 長井一禾(ながいいっか)の作という。
長井一禾は大観に向ってこう言ったそうな、
「展覧会などに出して賞を貰うために描く絵などは本当の絵じゃない。
無心になって描きたいものを 一心不乱に描く、
絵の価値は後世の人が、それをどう感じて、どう決めるかだ」と。
さすがの大観も一禾(いっか)には頭が上がらなかったそうな。その一禾の筆塚も寺内にあるという。
「さぁさぁどうぞ」と老僧のすすめるお茶をすすりながらふと見上げると、
日本間の長押(なげし)にぐるりと掲げてある戦没者の遺影、六十余枚。
「皆んなこの村の出身者です」日清日露から先の大戦に出征した若者達だそうな。
彼等は今老僧のはからいで懐かしいこのカラスの間に還ってきて安らいでいる。
偶感二首
斃(たふ)れても カラスに託し
みたまのみ
とんで帰りし ふる里の寺
身はたとえ
異国の空に果つるとも
みたまよ還れ ちちははの寺
深閑とした晩秋の山里の夕暮れどき。
放浪の天才画家一禾(いっか)が
「展覧会で賞を貰うために描く絵なぞ本当の絵じゃない。
自分が描きたいものを一心不乱に描く。それを後世の人がどう感ずるかだ」
と言い放ってから百年の歳月が経った今、
お国のために戦い斃れた若者達の遺影と共に居るこの空間に、なぜか生死を超えた永遠の安息を感ずるひと時があった。
二〇〇六年十一月二十九日 捨田利 裕
(カラスの寺)
楞厳寺(りょうごんじ)
住職 爲廣 哲堂(ためひろ てつどう)
京都府綾部市舘町楞厳寺6
TEL 0773-47-0043
JR山陰本線 綾部駅からバスで約10分
舘(たち)下車 徒歩約10分
(タクシー約10分で寺門前)
東北は奥羽山脈の南端の麓(ふもと)、信夫(しのぶ)のさと飯坂(いいざか)に古刹(こさつ)医王寺(いおうじ)があります。
創建は「みちのくの しのぶもぢずり誰ゆえに 乱れ染めにし われならなくに」と
百人一首に詠まれた頃、遠く平安時代に遡ります。
雄大な自然と共生するなかに、
素朴な乙女の恋心を歌った千年の昔から
この里のこまやかな人情味が今も寺辺に漂っているような気がします。
医王寺は中世初期にこの地方を支配した佐藤氏の菩提寺(ぼだいじ)ですが、
この寺を一躍有名にしたのは何よりも義経主従の感動的物語です。
最近あった出来事で「人の心は金で買える」などと放言したインスタントな主従の末路と重ね合わせてみて、
あらためて人の世の「信頼とは何か」、
「人を想う心とは何か」を問われ、激しく心打つものがありました。
兄頼朝に追われて奥州平泉へ逃がれる道中、
継信・忠信兄弟を弔うべく厳しい追手の危険も顧みず、この寺に義経が立ち寄ります。
風の便りでわが子の死は伝えられてはいたものの、それでもわが子の帰る日を祈る継信・忠信兄弟の母乙和(おとわ)に、義経はどんな体面をしたのでしょうか。
子を失った母乙和と母を亡くした子義経、
その場面に居合わせたかもしれない、この境内の大杉。
人の世のあわれを無言で見おろしながら、春なお浅い冬空に高々と聳えているのでした。
今も母乙和の墓前の椿は、悲しみに、花を咲かせることなく蕾のまま散るそうな。
圧巻は本堂裏の広場にある真新しい大きな石像が三体。義経・継信・忠信、主従の凛々しい武者姿です。
一昨年NHKの大河ドラマ『義経』を記念して建立された由。
そしてこれを建てた老僧の想いがまた胸を熱くするのです。
偶感二首
信じあう 人のこころと いさおしを
いわおとなして 語り継ぐがね
かりそめの いくさ還りの 晴れ姿
乙和椿の 花ぞ坂咲かせん
ヒューヒューと木立を通り抜ける冬風が、凱旋したわが子をもてなす母乙和の宴(うたげ)にそなえる、
名手義経の笛の調(しらべ)のようにも聞こえてくるのでした。
捨田利 裕
(歴史をしのぶ寺)
医王寺(いおうじ)
住職 橋本 竜弘
(はしもと りゅうこう)
福島県福島市飯坂町平野寺前45
TEL 0245-42-3797
福島交通飯坂線 医王寺前駅 駅から徒歩約10分
JR福島駅よりタクシーで約15分で寺門前
上州三山の妙義山に程近い松井田の里に、雲門寺があります。
寺の背景には増田山々系の天曳山を背負い、前面には増田川を配する地形に位置するこの寺は、戦国の群雄往還の馬蹄から護る、砦館であったとも思われます。
その証に増田川を塞き止めて、掘を回らせた痕跡とおぼしきものが、今でも残っています。
そして伽藍を塞ぐ護塀に、高々と石垣を重ね、白壁の土塀を回らせた景観は、まさに山城の威容そのものです。
豊穣の土地、関東を窺う者にとっても、また護る方にとっても、この地方は野望の最前線の要害であったのです。
古記録によると、寺史四百年とありますから、戦乱の惨果に亡くなった命の、菩提を弔うために建てられた地蔵堂が、この寺の元の姿の様に思われます。
それが四百年以前からあったのでしょう。
今も門外の旧参道の小径の傍に傾く、目鼻も風化した幾体かのお地蔵様が、それを物語っています。
またこの寺、雲門寺の創建に当たっては、かつて曹洞宗のご開祖、道元禅師が「深山幽谷に居住して修行せよ」と教示した如く、まさにこの寺は禅宗の修行道場に相応しい、最適地であったと思われます。
ご本尊のお釈迦様を祀る本堂の脇部屋に、十六善神像に混ざって、馬(め)鳴(みょう)菩(ぼ)薩(さつ)像、別称「絹笠さま」があります。
養蚕が盛んだったこの地に土着した守護神なのです。糸枠と桑の枝を持って白馬に乗ったお姿は優雅で、非常に珍しいお像だと言われています。
そして、絹笠さまのお優しい面持ちは、女性の幸せを象徴しているかの様で、何やら御利益がありそうです。
どちらかと言うと、地味な感じの禅寺に、一際目立って華やいで見えるのが、寺庭にある山野草のガーデンです。
いつの頃から咲いていたのか、これらの可憐な山野草を、今の様な二百数十種の山野草ガーデン「山草苑」に造り上げたのは、この寺のご住職の母、繁子さんです。
爽やかな春風がそよぐ寺庭の花園。
千年の昔、里娘の悲恋の涙がこの花になったのか、
故郷遠く離れたこの地で野望虚しく散った若武者の魂がこの草になったのか、
万象流転興亡の命を憐れむ、繁子さんの心が形になって、こんな美しい花園が出来たのです。
時おりの涼しげな風にそよぐ高(こ)麗(ま)草(くさ)の花が、母、繁子さんの世話をねだる赤子の様にも、
また、天曳山からの微(かす)かな山風になびく竜(りん)胆(どう)が、渇した若武者が甘露の水を待つ面影の様にも見えてくるのでした。
偶感二句
興亡の
あわれを知るや
野の地蔵
訪(と)う人の
心に染(し)みる
山野草
捨田利 裕
(山野草の寺)
雲門寺(うんもんじ)
住職 古渓 理哉
(ふるたに まさや)
群馬県安中市松井田町上増田624
TEL 027-393-0335
JR信越本線西松井田駅下車タクシーで約5分
高速:上信越自動車道,松井田妙義ICより8分
♪ 米山さんから雲がでェ~たァ ♪
の民謡で名高い上越の神の山よねやま山の麓町、柏崎に永徳寺があります。
遠くは万葉の昔に、この寺のある小高い丘に繁っていた柏の樹木が遥か海上から望見され、それが由来で柏崎の地名が発祥したとか。
今もその柏の木が境内に残存しています。
古記録によると、鎌倉時代に火災に遭った際、ご本尊の虚空蔵菩薩を新たに制作してお祀りしたとありますから、それ以前から伽藍(がらん)が建立されていたのでしょう。
明治の頃また火災に遭って以来、廃寺同然に荒れ果てていたこの寺を、平成に入ってから今のご住職が再建されたそうな。
まだ木の香も新たな本堂の脇部屋に、お寺としては珍しい鷹の絵の屏風がありました。
ご住職さんの話では、かつては徳川家の勅願寺であったとのこと。
永徳寺の山号額は当時名君老中として名高い松平定信の手筆によるもので、今は市の重要文化財に指定されているそうな。
「今は昔の話ですが」と、この鷹の話をお聞きしました。
昔々の話になりますが、徳川家康が家臣と一緒にくつろいだ座談の折、「今の世に武蔵坊弁慶の様な剛勇の士はいまい」と言ったところ、頑固一徹の家臣、本多正重が「弁慶等は幾らも御座る」と異を唱えたという。
大阪城・夏の陣で大阪方の智将真田幸村がまっしぐらに家康の本陣に迫った時、赤揃いの武具で身を固めた酒井忠勝が立ちはだかって危難を救った。
それ以来、家康をして「徳川の赤弁慶」と言わしめた酒井忠勝。
その忠勝が寛永十三年(1636年)、日光の東照宮造営に際して、絵師橋本長兵衛に描かせた御用鷹の偏額を奉納した。
「我が魂ぱくは鷹となり永久(とわ)に権現様を守護せん」と。
今もその鷹が四百年この方、東照宮を守り続けている。
当時、鷹を描かしては当代随一の長兵衛は越前酒井藩のお抱え絵師でありました。
「その長兵衛の鷹がこれなんですよ」
と住職さんの丁寧な説明に、すっかり歴史の中にタイムスリップしてしまいました。
さらに最近、奇瑞があったと言う。
ご住職が或晩、鷹が屏風から逃げ出して本堂の屋根のてっぺんに止まった夢を見たそうな。
ところが間もなく、大地を揺るがす大地震が柏崎を直撃したのです。
隣接の刈羽村の原発施設をはじめ多大の被害がでました。
勿論、周辺のお寺も殆どが壊滅状態なのに、なんと不思議な事にこの寺は殆ど損傷がなかったそうな。
「やっぱり鷹が守ってくれたんですね」
と住職が合掌した。
展覧会で賞を貰う為に描いている最近の画家とは訳が違う。
何百年の時代を超えて「げに絵師の入魂の作とは恐ろしきもの」と、今更ながら感動を新たにしました。
「一富士、二鷹、三茄子び」とは初夢に見ると吉運と言われていますが、いま時、本当にそんな事があるのだろうか?
しかし、この鷹を見入っている内に、何故かその話が俄(にわか)に信憑性を帯びて来る気持ちになるから不思議です。
「私はこの鷹に、頻発する幼少年犯罪から子供達を守って貰うよう、毎朝お祈りをしてるんです。そして子供達がすくすくと良い子に成長するように仏さまにお願いをしているんです。子供は国のお宝ですから。この国の将来は子供達が引き受けてくれているんですから。」
と住職さん。
ふと、この住職の熱い思いに、かつて子供達をこよなく慈(いつく)しんだ、この国・越後の名僧良寛さんの面影を見る思いがするのでした。
偶感二首
忠臣の思いがいつか鷹となり
永久に守護せん君が御霊を
長兵衛のいまに伝わるこの鷹に
越後の国の子らを守らん
捨田利 裕
(鷹の寺)
永徳寺(ようとくじ)
住職 五十嵐 隆阿
(いがらし りゆうあ)
新潟県柏崎市西本町2-10-29
TEL 0257-22-2461/p>
JR信越本線・柏崎駅下車・徒歩12分、タクシー5分
高速北陸道・柏崎ICより10分
人は何万年前もの昔から巨岩を尊(たっと)び、山に畏(おそ)れを抱き、大樹の森に霊気を感じた。
ここ四国の豊永郷は吉野川の源流の奥深く、おそらくは太古の昔から修験の霊気が漂う場であったに違いない。はたせるかな青年空海がこの地に籠もって修行したという。
今もこの寺、定福寺の裏山、加持ヶ森峯の御影堂に珍しい結髪の大師像が伝わっている。
「いま心の旅を」
都会の喧騒やセメントの囲いからはなれて
心のふるさとを旅してみませんか
清流や辺境の谷間で
千年このかた時の流れを止めて
ひっそりと佇(たたず)む寺らしき寺で
僧らしき僧に会って
心を洗ってみませんか
夕焼け小焼けに日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
その鐘の音に心を打って見ませんか
私が数年前この寺、定福寺に立ち寄って帰京したあと、この寺を想い詠んだ詩です。
この人里離れた山寺になんと一昨年NHKの「にっぽん 心の仏像」で全国に紹介された仏像があるという。
それはこの寺の宝物殿に群立するいかつめしい仏像の中で、ひときわ目立って緊張を柔らげる六体の「笑い地蔵」です。
「泣いて生まれて、笑って死にたい」という庶民の願望を形にしたのか。
また、このふり向く表情の何とお茶目な事。
このユーモラスさは現代人の心を捉えてやまない新鮮な癒しを感じさせるのです。
しかも作者不詳との事。自らの名は残さず、心のみを千年の未来に伝える仏師の心意気に、えもいえぬ感銘を覚えるのでした。
そしてこの寺の老住のチャレンジ精神がまた凄い。
七十才を超えてなお仏教の源流のチベットへ旅し、更には祖国を追われたダライラマを支援する。
またこの地の民族文化の確かな遺産を残すべく、民俗民具資料館の建設を目ざす。
このエネルギーにふと超人空海の行動力をかいま見る思いがするのでした。
偶感二首
青雲のたなびく嶺に空海の
心つたうる豊永の郷
ふり向きて笑顔で迎う六地蔵
万(よろず)の人の心和(なご)ます
捨田利 裕
(「笑顔のお地蔵さん」 の寺)
定福寺 (じょうふくじ)
住職 釣井 龍宏
(つるい りゅうこう)
高知県長岡郡大豊町栗生158番地
TEL 0887-74-0301
JR土讃線豊永駅より徒歩20分
高知自動車道大豊インターより20分
第二次世界大戦で日本国内で唯一戦場となった県沖縄で、しかも最後の決戦場となり言語に絶する殺戮(さつりく)の地獄と化した此処糸満(いとまん)の地に天が観音様を降臨(こうりん)させ賜うた。
この寺から僅か数キロの洞窟で時の沖縄防衛軍司令官太田中将が玉砕を前にして、「県民は軍と共によく戦った、願わくば日本国が沖縄県民に後世特別の配慮有らん事を」と打電して自決した。
その沖縄に日本国は今何を与えているのだろうか。
未だ米軍の基地を背負わされているこの沖縄に戦後はない。
そんな沖縄の人々に天がこの糸満の丘に観音様を降臨させ賜うたのだ。
そうとしか思えないほど、見る人の心に安らぎを与える慈愛に満ちみちた十一面観音様なのです。
仏様を彫っては当代随一の仏師松本明慶師が沖縄の人々の為に精魂込めて彫ったのも天の配剤ではなかったろうか。

又、この寺を開基(かいき)し遠く奈良の長谷寺(はせでら)からご本尊の十一面観音をこの地に奉持された岡田住職もまた天の啓示に遵ったのではなかろうか。
何と不思議な事に五年前の正月に長谷の観音様が住職の夢枕に立ち「沖縄に行き長谷寺を建て人々に安らぎを与えなさい」とお告げになったという。
初めて沖縄に来た岡田住職にそれこそ奇跡の連続とでも言おうか、出会う人毎に話が進み、遂には広大な敷地と建物を提供する人まで現れた。
たちまちにしてこの寺が開山の運びになったという。
戦没戦災者の鎮魂慰霊と今に生きる沖縄の人々に安らぎと幸せを与えたいという住職の切なる願いが形となって沖縄山城間院長谷寺が誕生したのです。
摩文仁(まぶに)の丘のひめゆり会館にある少女の遺稿の一節
「朝が来なければいい 陽が昇らなければいい また戦争がはじまるから・・・」
もうそんな沖縄にしてはいけない。
いやそんな世界にしてはいけない。
とそんな願いがこの寺になったとしか思えないのです。
美しい海から南風がそよぐ夕暮れの丘にこだまする鐘の音が「観音様が守っていますよ」とでも告げている様に聞こえてくるのでした。
偶感二首
何ごともなきかのようなこの島を
永久に守れや長谷のみ仏
守り切れず空しく散りしもののふの
みたまに答う人やいるらん
身を金蘭(きんらん)の袈裟(けさ)に包み、多くの役僧にかしづかれて、大伽藍(だいがらん)に座す高僧より、単身托鉢を抱えて民衆の中に身を投じ救世済民(きゅうせいさいみん)の最前線に立つ一介の僧の方が、よっぽど宗教家らしい生き方ではあるまいか。
かってセントザビエルが遥々(はるばる)祖国から離れた異国の地東洋にやって来たのも、また日蓮(にちれん)や親鸞(しんらん)が民衆の中から宗派を立ち上げたのも、真の宗教家精神の発揮に他ならない。
還暦をとうに過ぎた老後の安易を振り捨てて岡田住職は、何と東京の自坊の寺の住職を奥様に託し単身沖縄へやって来て、この地に骨を埋める覚悟という。
まさに天がこの地に与え賜うた名僧に邂逅(かいこう)した冬の旅沖縄でした。
二〇一〇年一月二十八日 捨田利 裕
(観音降臨の寺)
長谷寺(はせでら)
住職 岡田弘隆
(おかだこうりゅう)
沖縄県糸満市潮平1番地
TEL 098-852-3533
那覇空港よりタクシー15分
古来より越後の国では「雲洞庵(うんとうあん)の土踏んだか関興庵(かんこうあん)の味噌なめたか」と信仰の深さを問う合言葉とされて来たそうな。
雲洞庵の正門・赤門より本堂に至る石畳の下に法華経を一石に一字づつ記し、その経石(きょうせき)を敷きつめた上の石畳を歩いてお参りする事から、その有難さに随喜(ずいき)して言い合った言葉だと言われています。
今を去る千数百年前、都から藤原氏の尼さんがこの地にやって来て庵(いおり)を作り、裏山の金城山より湧き出る霊泉で沢山の村人の病を直したのがこの寺の創建だと言う。
峩々(がが)たる上越の山岳の麓に、森々(しんしん)と霊樹の茂るこの地は禅の修行道場として最適であったに違いない。
はたせるかな、この天地より霊気を戴き多くの高僧、名僧が輩出した。戦国の武将達もまたこの寺で強靭な精神力を鍛える拠り所としたに違いない。
昨年NHKの大河ドラマ「天地人」の発祥がこの地であったのも、むべなるかなである。
ドラマに登場した戦国武将列伝で第一級の人物・上杉藩家老、直江兼続もまた此処で幼少時代を送っている。
「こんな所に来とうはなかった」と駄々をこねる頑是(がんぜ)ない五歳の童子を当代随一、第一級の人物に仕立て上げたのも、当時名僧の誉れたかき通天和尚だったと言う。

天下人太閤秀吉をして「兼続こそ天下の仕置きを委ねられる人物」と今で言うスカウトを仕掛けたが、百千万宝を以てしても主君景勝との主従の誓いは揺るがなかった。
あの「愛の前立て」を兜に冠して生涯、人々を愛してやまなかった兼続の魂の根源を鍛造(たんぞう)したのもこの雲洞庵なのである。
それら歴史に登場した人間模様の数々の遺品がこの寺の宝物殿に展示されている。
そして幾時代、幾星霜(いくせいそう)。
今も変わらず欝蒼(うっそう)と林立する大杉の奥深く聳える僧堂は、何人(なんびと)の魂も喝破(かっぱ)する凜然(りんぜん)たる霊気を漂わしているのでした。
深々(しんしん)と雪降る越後の厳冬。
ひと度,この寺の山門をくぐった途端、人の魂と天地のなせる業(わざ)が渾然一体となって別次元の世界にトランスファされキーワード「天地人」の様な気持ちになるから不思議です。
偶感二句
兼続も
踏みし板の間
ツヤツヤと
人の世の
あわれを知るや
杉木立
当代のご住職新井勝龍師は禅僧としての先例に遵(したが)い妻帯せず、今日まで法灯を守り続けていると言う。
まさに今に生きる真の僧中の僧ではあるまいか。それに何とご住職は駒沢大学の名誉教授でもあるとの事。
にも拘わらずそんな智学を究めた禅僧の厳しさの片鱗だに見せず、むしろ慈愛に満ちたその眼差(まなざ)しは、「この石畳を歩き、この板の間を踏みしめた人から、また天地を揺るがすどんなドラマが生まれる事やら楽しみですよ。」とでも語りかけてくれている様にも見えるのでした。
拝辞して門外に出ると、
越後連山が雪霞み、さながら幽玄な墨絵の様な冬景色。
頬を打つ雪の冷たさが何故か心地よく、心温まる冬の旅になりました。
二〇一〇年一月二〇日 捨田利 裕
(天地人の寺)
雲洞庵(うんとうあん)
住職 新井勝龍
(あらいしょうりゅう)
新潟県魚沼市雲洞660番地
TEL 025-782-0520
関越自動車道六日町インターより15分
JR上越線六日町駅よりタクシーで10分